商品の機能も、提案のメリットも説明した。それでも、相手の反応が薄い。そんなときに見直したいのが、聞き手は「それによって何が変わるのか」を思い描けているか、という点です。
『心に刺さる「物語」の力』は、経験の中から伝える材料を見つけ、相手に届く話へ整えるための本です。営業や広告に関わる人はもちろん、方針を伝える管理職、他部署に協力を求める会社員にも使いどころがあります。大きな成功談を持っていなくても、日々の小さな出来事から考え始められるのが、本書のよさです。
『心に刺さる「物語」の力』はどんな本か
著者のキンドラ・ホール氏は、企業などにストーリーテリングを伝えるプロのストーリーテラーです。本書では、商品やサービスの価値、事業を始めた理由、組織が目指す目的、顧客の経験という、ビジネスで伝えたい内容に応じて物語の役割を整理しています。
その土台にあるのは、聞き手が思い浮かべられる人物、感情、ある瞬間を詳しく描くこと、具体的な細部です。会社の沿革や製品の特徴を順に並べるだけでは、人が何を経験し、どう変わったかは見えてきません。著者は、変化の前にあった日常から、変化が起き、その後の日常へ至る流れを重視します。
本書は、この構造の説明に加え、材料を探し、聞き手に合わせて選び、語れる形に整える過程も扱っています。完成した名スピーチを鑑賞するだけでなく、自分の仕事にある経験を見直すために読める一冊です。
三つの場面から見える、物語が届く条件
香水の由来が、買い物の意味を変える
序文で著者が語るのは、ふだん買い物を好まない夫が、香水「エイト&ボブ」の由来を聞いて購入する場面です。商品を手に入れるだけで終わらず、その話を誰かに伝えたくなる。香りの特徴だけを聞いた場合とは、商品の受け取り方が変わっています。
このエピソードが分かりやすいのは、物語を聞いた人の変化まで描かれていることです。商品にまつわる情報を知ることと、その商品を人に語りたくなることの間には、距離があります。本書は、その距離をどう縮めるかという問いから始まります。
仕事に置き換えると、説明する側が正確な情報をそろえたことで満足していないかを考えさせられます。相手が上司や同僚へ説明し直す場面まで考えると、持ち帰ってもらう内容も変わるでしょう。ただし、ここで示されているのは著者夫妻の経験です。由来を語れば誰でも購入する、という一般的な効果を示す例ではありません。
業務の効率化を、取り戻した時間から捉える
商品やサービスの価値を扱う章には、報告書の作成に追われていた顧客が時間を取り戻し、トライアスロンに再び挑戦する話が出てきます。業務を効率化する価値が、その人の生活で何を可能にしたかという形で描かれています。
この事例から見えてくるのは、説明の焦点をどこに置くかという問題です。作業時間の短縮は重要ですが、利用者が大切にしていたことまで分かると、同じ成果にも具体的な意味が生まれます。仕事の改善を伝えるときにも、手順が減ったという説明から一歩進み、その結果、誰が何に時間を使えるようになったかを確認する視点が得られます。
一方で、生活の変化まで描かれた成功例は印象に残りやすいため、読む側にも注意が必要です。この顧客に起きた変化と、別の利用者にも期待できる効果は分けて考えるべきでしょう。導入条件、本人の取り組み、他の要因を省いたまま、物語だけを成果の根拠にしないことが大切です。
よい話でも、聞き手が違えば選び直す
後半では、ペット医療の分割払いサービスをめぐる事例が紹介されます。飼い主の苦しみに焦点を当てた話だけでは、サービスを紹介する獣医が抱える経営上の課題に十分届かない。そこで、誰に伝えるかを踏まえて、取り上げる話を選び直します。
この場面は、本書を仕事で使ううえで特に役立ちます。感情を動かす話を用意しても、聞き手がいま判断しなければならない問題とつながっていなければ、行動には結びつきにくいからです。話の上手さを磨く前に、相手が何に困り、何を気にしているかを知る必要があります。
管理職への提案でも、現場の負担を理解してもらうことと、予算や運用の変更を判断してもらうことでは、必要な材料が異なります。物語で課題を具体化したうえで、判断に必要な数字や条件も示す。この二つをつなぐ読み方が、本書の実用性を高めます。
読む価値は、話す前に経験をよく見ること
本書が向いているのは、製品の特徴や施策の目的を説明できても、相手の実感につながらないと感じている人です。専門の違う部署に協力を求める人や、仕事の意義を部下と共有したいリーダーにも、考える材料があります。
特に使いやすいのは、物語の材料を探すという視点です。どんな場面で困ったのか、何をきっかけに状況が変わったのか、そのとき本人は何を感じていたのか。こうした問いを持つと、ふだんの報告では見落としやすい経験に目が向きます。伝える技術を学びながら、相手の仕事を詳しく知るきっかけにもなります。
また、本書は顧客自身が語る経験も重視しています。企業が顧客を主人公として説明することと、顧客本人の言葉を聞くことの違いに目を向けている点は、事例紹介をつくる人にとって重要です。説明しやすい形に整えすぎると、その人らしい細部や迷いまで失われることがあります。
事例を読んで考える進め方なので、抽象的な伝達理論だけでは使う場面を想像しづらい人にも入りやすい内容です。一方、文章の言い換え集や短い定型文を求める人には、回り道に感じるかもしれません。話す原稿を直す前に、何を聞き、どの経験を取り上げるかを考える時間が必要になります。
読むときは、いま説明に苦労している案件を一つ思い浮かべると、内容を取り入れやすくなります。商品の話を伝えたいのか、活動の目的を共有したいのか。その違いを意識すると、自分が語りやすい経験だけを選んでいないかも確かめられます。
読む前に知っておきたい限界
本書には、著者の経験や企業の成功事例が数多く登場します。それらは使い方を考える材料になりますが、同じ方法を使った場合の成果を保証するものではありません。物語の効果を数量的に確かめたい人は、事例の背景や比較条件を別途確認する必要があります。
さらに、顧客本人の言葉であっても、質問の仕方や編集によって印象は変わります。本書には質問や働きかけの工夫も出てくるため、顧客の声をそのまま客観的な効果の証明と扱うことはできません。仕事で使う際は、どのように集めた声なのか、紹介する範囲について本人の同意があるかも確認したいところです。
語りやすい経験ばかりがあるわけでもありません。著者は、本人が納得していない経験や他人の秘密を無理に語る必要はないとしています。職場で取り入れるなら、心に残る話を集めることを優先しすぎず、語らない選択を尊重する姿勢も欠かせません。
仕事で試すなら、一つの改善提案から
ここからは、本書を踏まえた独自の応用案です。例えば、部署内の引き継ぎ方法を改善したいとき、資料の形式を説明する前に、実際に起きた一つの出来事を振り返ります。これは架空の成功談をつくるためではなく、課題が生じた状況を具体的に捉えるための準備です。
- 誰が、どの場面で、何に困ったのかを確かめる
- その後の対応で、何が変わり、何が残ったのかを整理する
- 聞き手に判断してほしいことと、その出来事の関係を考える
- 事実、本人の受け止め、これから試す仮説を分けて伝える
例えば、引き継ぎ資料に必要な情報がなく、担当者への確認が繰り返された出来事が実際にあるなら、そのときの状況と影響を確認します。そのうえで、提案する変更が同じ問題をどう減らせるかを説明します。まだ試していない改善は見込みとして示し、起きていない効果を経験談に混ぜないようにします。
具体的にするために、個人名や失敗の詳細をすべて出す必要はありません。共有してよい範囲を本人と確かめ、必要に応じて特定につながる情報を控えます。聞き手が状況を理解できたか、判断に足りない条件は何だったかを確認すれば、次に集める材料も見えてきます。
まとめ 伝えたい価値を、一人の経験から考える
『心に刺さる「物語」の力』は、日々の経験をよく見て、聞き手に合う話を選ぶための本です。人物が経験した変化を具体的に描くことで、説明していた価値の意味を捉え直せます。次の提案や方針共有に向けて、まずは関係する出来事を一つ、事実と本人の言葉から丁寧に振り返ってみると、読む価値が仕事につながります。
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- 書名:『心に刺さる「物語」の力 ストーリーテリングでビジネスを変える』
- 著者:キンドラ・ホール/訳者:湊麻里
- 出版社:パンローリング/紙版:336ページ
- 紙版ISBN:9784775942451
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